2021年2月3日水曜日

銘柄を明かさない理由R 「第30章 伝説の仕手戦」うら話

自身のオリジナル小説「銘柄を明かさない理由R」。
現在、新章を執筆中だが、うら話を書いてみる。
うら話は、先日、書き終わった「第30章 伝説の仕手戦」である。
「第30章 伝説の仕手戦」は、実在したある天才を思いながら書いていたw

実在したある天才は、映画監督の川島雄三(1918年2月4日 - 1963年6月11日)。
彼は、青森県下北郡田名部町(現在のむつ市)生まれ。
家は代々伝わる商家(酒屋)で、もともとは近江商人の出だった。
彼は、運動は駄目だったが、成績優秀で本を読むのが好きな子供だったらしいw

青森県立野辺地中学校(現:青森県立野辺地高等学校)卒業、明治大学文芸科に入学。
学生時代は映画研究部に在籍、大学卒業後、松竹大船撮影所監督部に入社する。
撮影所前の松尾食堂に入り浸り、居候となる。
食堂の娘と縁談話が持ち上がったが、子供を作れない体であることを理由に断るw

初の助監督公募で、2000人中8人の採用に選ばれる。
島津保次郎、吉村公三郎、小津安二郎、野村弘将、木下惠介らの助監督を経る。
1944年、監督昇進試験主席合格の後、織田作之助原作の「還って来た男」で監督デビュー。
「第30章 伝説の仕手戦」の初回タイトル「還って来た男」は、デビュー作からお借りしたw

1946年、「追ひつ追はれつ」では日本初のキスシーンを撮った。
松竹時代の彼は、コメディ映画を多く撮っていた。
1952年には、神楽坂はん子の歌である「こんな私じゃなかったに」を撮っている。
「第30章 伝説の仕手戦」のラストで「こんな私じゃなかったに」を使わせていただいたw

彼は家を持たず、浅草や新宿など、都内の行きつけの宿を家替わりに泊まり歩いていた。
銀座の小料理屋「菊川」で働く中村八重司に惚れこむことになる。
当時高級住宅だった日活アパートで、彼は八重司と一緒に暮らし始める。
八重司は、幼い頃亡くなった彼の母にそっくりだったらしいw

やがて、八重司は妊娠したが、彼は出産を許さなかった。
夜ごとスタッフと飲み明かす日々を送り、飲み代は当時の金で毎月50万円に達した。
助監督の給料が1万円の時代に、5万円の舶来の洋服を着ていた。
「第30章 伝説の仕手戦」の主人公である淀屋勝利の身なりは、彼のイメージであるw

1954年、松竹で23本の映画を撮った彼は、日活へ移籍「幕末太陽傳」などの傑作を残す。
1957年、東宝系の東京映画へ移籍、「しとやかな獣」などの作品を残す。
遺作「イチかバチか」公開の5日前に、芝にある日活アパートの自室にて急死、享年45。
墓所はむつ市新町の徳玄寺、監督作品51本、待機作3本は未完となったw

当時の弟子だった今村昌平について、彼は映画評論家の白井佳夫に言っている。
「メシのためより自分が納得したシャシン撮るまで何もしない。
(こういう今村を)白井佳夫さん、支えてやってください」
「第30章 伝説の仕手戦」の白井は、映画評論家の白井佳夫から名字をお借りしているw

彼の弟子だった今村は、1983年に東映との共同製作で「楢山節考」を発表する。
今村は、「楢山節考」でカンヌ国際映画祭最高賞(パルム・ドール)を受賞する。
衣笠貞之助監督「地獄門」、黒澤明監督「影武者」に続く、三度目の日本作品受賞だった。
受賞効果もあり、1億7千万円で制作した同作は、12億円を稼ぎ出したw

彼の傑作「幕末太陽傳」には、幻のラストシーンがある。
主人公が、江戸時代のセットから外に出て、現在の町中に走り出すというラストである。
このラストシーンは、俳優やスタッフなどからの反対で、実現しなかった。
後に、主人公役のフランキー堺は「監督の言う通りにしておけば良かった」と語っているw

幻のラストシーンは、後に様々な映画人によって、意識的、無意識的に踏襲されている。
今村は、自身の「人間蒸発」のラストで、部屋がセットだという事を観客に明かした。
「新世紀エヴァンゲリオン」の製作者である庵野秀明も影響を受けた1人らしい。
庵野は、各媒体に「『幕末太陽傳』をやりたかった」と語っているw
(Wikipediaより)

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