2021年11月28日日曜日

銘柄を明かさない理由R412 大坂の豪商(後編)

第412話 大坂の豪商(後編)

淀屋五代目の淀屋廣當。
1705年(宝永2年)、廣當が22歳の時、幕府の命により闕所(けっしょ)処分となった。
廣當の通称である淀屋辰五郎の闕所処分として有名である。
闕所時に没収された財産は、金12万両、銀12万5000貫(小判に換算して約214万両)。

土地が北浜に2万坪、伏見、和泉、八幡などに400町歩、家屋1万坪、米蔵など730戸。
材木2千貫、千石船150、屏風、鉱産物、美術品、薬種、刀剣など。
また諸大名へ貸し付けていた銀1億貫(現代の金額に換算しておよそ100兆円)。
廣當は大坂三郷所払いとなり、財政難の幕府は一息つき、諸大名は借金が帳消しになった。

闕所の公式な理由は「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」というものだった。
しかし諸大名に対する莫大な金額の貸し付けが、本当の理由であろうとされている。
1708年(宝永5年)、道頓堀で、近松門左衛門の浄瑠璃「淀鯉出世滝徳」が上演された。
淀屋をモデルにした発展と凋落の物語は、観客の同情を誘って人気を博した。

四代目の重當は、闕所処分を予想し、番頭であった牧田仁右衛門に暖簾分けをしていた。
牧田は、暖簾分けした店を、出身地の伯耆国久米郡倉吉(鳥取県倉吉市)に開いた。
店を開くと、淀屋清兵衛を名乗り、牧田家は八代目の孫三郎が没する1895年まで続いた。
牧田家の商業活動や各当主の詳細に関しては、資料が殆ど残っていないため明らかでない。

1979年6月5日付の日本海新聞。
「大阪・倉吉 淀屋清兵衛は同一人物だった」と見出しが踊った。
鳥取県倉吉市の大蓮寺の境内に「大坂・淀屋清兵衛」と彫った供養塔がある。
地元では、清兵衛を名乗る牧田家と大坂の淀屋清兵衛との関係が取り沙汰されていた。

地元の招きで倉吉を訪れた淀屋研究家が、墓や寺の古文書を調査した。
調査の結果、2人は同一人物と鑑定したというものである。
2005年、倉吉市教育委員会は、築250年の牧田家を保存するため、調査委員会を設けた。
調査の結果、「淀屋清兵衛家は牧田家が出自」との報告書をまとめた。

新山通江著「淀屋考千夜一夜」などによると、四代目の重當は幕府による取り潰しを予見。
当時、番頭だった牧田仁右衛門に、淀屋の暖簾を守るように厳命した。
牧田は倉吉に戻ったが、淀屋の再興を期し、1763年(宝暦13年)に淀屋橋に出た。
牧田家三代目の四男は、木綿商の店を構え、淀屋清兵衛を名乗ったという。

関西では、淀屋再評価の気運が盛り上がっている。
2005年、淀屋の墓所がある京都府八幡市の神應寺で「淀屋闕所300年法要」が行われた。
なお、淀屋を創業した岡本家が、前期淀屋の「淀屋初代本家」。
闕所後、淀屋を再興した牧田家が、後期淀屋の「淀屋二代目本家」と呼ばれている。
(参考:公益財団法人 関西・大阪21世紀協会「なにわ大坂をつくった100人」)

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