2023年7月20日木曜日

銘柄を明かさない理由R024 相場師の聖地(後編)

第024話 相場師の聖地(後編)

2009年7月、東京都中央区日本橋。
食堂「二葉亭」の女性店主は、ある男が来るのを待ち構えていた。
その男は、4月に初めて店に来たが、食事を頼まなかった。
週末になると来るが、いつも焼酎のロックしか頼まなかった。

「二葉亭」の味は、戦前の創業時から受け継がれている。
かっては、財界人や各界の名士が常連だったと聞いている。
婿養子だった夫と別れ、両親が隠居してからは、一人で切り盛りしている。
だが、昼は証券マンが多く訪れるし、雑誌の取材を受けたこともある。

なのに、あの男は焼酎のロックしか頼まない。
ロックも本を読みながら飲んでるし、グラスが空になったら帰る。
今日こそは、必ず、食べさせてやる。
一度、口にしたら忘れられない味になるはず、女性店主には自信があった。

いつも男が来る時間になった。
引き戸を開けて男が入って来たので「いらっしゃいませ」といった。
男は、いつもの端のテーブル席に座った。
女性店主が注文をとりにいくと、男はいつも通り、焼酎のロックしか頼まなかった。

女性店主は厨房に戻ると、焼酎のロックを作り、用意していた品をトレイに乗せた。
本を読んでいる男の前に、ロックのグラスと五品の小鉢料理を置いた。
本から顔を上げた男が小鉢料理を見て、頼んでいないという。
「サービスです。お代は結構ですから」、女性店主はいい、厨房へ戻った。

男は困ったような顔をしていたが、本を読みながら、食べ始めた。
食べるのも本を読みながらなんて信じられない、女性店主は呆れた。
いつも通り、小一時間ほどすると、男は立ち上がって、レジに来た。
女性店主が焼酎のロックとお通し代を請求すると、男は支払い、店を出た。

女性店主がテーブルを片付けに行くと、男は小鉢料理をきれいに食べていた。
小鉢の下には、一枚の一万円札が挟んであった。
嫌味っぽく思われたかもしれない。
もう来てくれないかもしれない、女性店主は自分の行いを後悔した。

翌週の週末、いつもの時間になると、男がやってきた。
男は、いつもの端のテーブル席に座った。
女性店主が注文をとりにいくと、男は焼酎のロックと先週の小鉢料理を頼んだ。
翌週から、店のメニューに、晩酌セットが加わった。

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