2023年7月12日水曜日

銘柄を明かさない理由R018 敗者の末裔(後編)

第018話 敗者の末裔(後編)

ジョウシマが調査を依頼した数ヵ月後。
調査会社から報告書と請求書が送られてきた。
報告書によると、父親は徳島の地主である阿佐家の長男だった。
母親は京都で代々続く商家の三女だった。

旅行先の京都で、母親と知り合った父親は、恋に落ちた。
双方の親に一緒になりたいと願い出たが、認めてもらえなかったらしい。
ジョウシマ姓の母親は、駆け落ち同然に家を出たらしい。
父親は、弟に跡を継がせろといい、姓をジョウシマに変えて、家を出た。

その後、職を求めて東京へ出た両親は、アキコとユウイチを授かった。
家を出たあと、両親と双方の実家は絶縁状態だったらしい。
報告書には、ジョウシマが知らなかったことが書かれていた。
姉のアキコが、両親の葬儀が終わってから、双方の実家を訪れていた。

両親の遺骨を携えて、亡くなったことを伝えにいったらしい。
そのとき、どのようなやりとりがあったかは、書かれていなかった。
両親の遺骨は、姉と一緒に海洋散骨している。
ジョウシマにいわなかったことから、歓迎はされなかったのだろう。

両親の素性を調べたが、わかったことは特別な先祖はいなかったということ。
両親は生涯にわたって、一緒になることを認めてもらえなかったということ。
結局、繰り返し見る夢の原因はわからなかった。
だが、両親のことを知ることができただけでも、価値ある調査だった。

日本各地には平家落人部落が多く残され、平家の末裔を称している。
その一つとして有名なのが徳島県西部、祖谷の平家落人部落である。
この部落は、吉野川の支流祖谷川にある祖谷渓の峡谷をなす剣山山麓に位置する。
部落の祖は、平家の猛将だった平教経(たいらののりつね)という伝説がある。

伝説によれば、壇ノ浦の戦いで、海に飛び込み死んだとされる教経は生き延びた。
教経は、安徳天皇を奉じ、手勢百余騎を率いて陸路東に逃れた。
やがて、阿讃山脈を越えて吉野川をさかのぼり、阿波国美馬郡祖谷山に入った。
阿波に入った教経は、大枝の名主喜多氏を討つと、その屋敷に立てこもった。

教経は、勢力を伸ばした後、阿佐に移り住み、承元二年(1208年)に死去したという。
教経の長男氏盛は阿佐氏を、次男盛忠は久保氏をそれぞれ名乗った。
祖谷にある阿佐家は、教経の直系の子孫と伝えられている。
阿佐家には、「平家の赤旗」と呼ばれる大小二流の旗と系図、宝刀が所蔵されている。
(参考:wikipedia「壇ノ浦の戦い」

0 件のコメント:

コメントを投稿