2023年7月10日月曜日

銘柄を明かさない理由R016 敗者の末裔(前編)

自身はオリジナル小説「銘柄を明かさない理由R」を執筆している。
「銘柄を明かさない理由R」は、5人の無敗の相場師と取り巻く人々の物語。
先日、登場人物の1人から、続きを書いたらと催促があった。
構想がまとまっていないと答えると、それならとある提案をしてもらったw

ある提案は、今まで書いた内容のリニューアル。
具体的には、基本的なあらすじは変えずに加筆修正を行う。
数少ない読者の暇つぶしになれば、うれしく思う。
では、「銘柄を明かさない理由R 第02章 敗者復活戦」をお届けするw
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第016話 敗者の末裔(前編)

平安時代末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)。
長門国赤間関壇ノ浦(山口県下関市)に、平教経(たいらののりつね)がいた。
数々の合戦において武勲を上げた教経は、平家随一の猛将だった。
都落ち後、水島の戦い、六ヶ度合戦、屋島の戦いで奮戦して、源氏を苦しめていた。

栄華を誇った平家が滅亡に至った最後の戦い、壇ノ浦の戦いが始まった。
平家水軍を撃滅すべく、源義経は840艘の水軍を編成、舟戦(ふないくさ)を仕掛けた。
攻め寄せる源氏水軍に対して、500艘の平家水軍は拠点の彦島を出撃した。
午の刻(12時頃)、関門海峡壇ノ浦で両軍は衝突して合戦が始まった。

序盤は、舟戦に慣れた平家が優勢だった。
だが義経の水手・梶取を射る奇策と阿波水軍の裏切りにより、平家は劣勢になった。
そして潮の流れが反転したことにより、平家の敗北は決定的になった。
平家一門の者や二位尼と安徳天皇が、次々と入水する中、教経は戦い続けた。

教経は、さんざんに矢を射ると、源氏方の坂東武者たちを射落とした。
矢が尽きると、大太刀と大長刀を左右の手に持つ二刀流で、敵を斬りまくった。
「すでに勝敗は決しておる、罪作りなことをするな」
平家方の大将として指揮を執っていた平知盛は、人を使い、教経に伝えた。

「ならば、敵の大将と刺し違えん」
意を決した教経は、舟から舟へ飛び移り、敵を薙ぎ払いつつ義経を探した。
そして、ようやく義経の舟を見つけると飛び移り、組みかからんとした。
ところが、義経はゆらりと飛び上がるや、舟から舟へ八艘彼方へ飛び去ってしまった。

後に有名となる「義経の八艘飛び」に、早業ではかなわないと思った教経は覚悟を決めた。
その場で太刀を捨て、兜も脱ぎ棄てて仁王立ちすると、大音声を挙げた。
「さあ、われと思わんものは組んで来て、この教経を生け捕りにせよ。
鎌倉の頼朝に言いたいことがある」、兵たちは恐れて誰も組みかかろうとはしなかった。

源氏方には、三十人力で知られた土佐国住人の安芸太郎と次郎の兄弟がいた。
兄弟は大力の郎党と、教経を生け捕って手柄にしようと、三人で組みかかった。
教経は大力の郎党を海へ蹴り落とすと、兄弟を左右の脇に抱えて締め付けた。
「貴様ら、死出の山の供をせよ」と言うと、兄弟を抱えたまま海に飛び込んだ。

平家随一の猛将だった教経の享年は26歳とされている。
だが、徳島県祖谷地方の伝説では、教経は壇ノ浦で死ななかったとされている。
安徳天皇ともども、100余騎を引き連れた教経は四国へ落ち延びた。
名を幼名の国盛と改めた教経は、祖谷に土着、20年の後に没したという。
(参考:wikipedia「壇ノ浦の戦い」

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