2021年1月17日日曜日

銘柄を明かさない理由R395 淀三証券出陣(前編)

第395話 淀三証券出陣(前編)

1945年(昭和20年)。
本土空襲が本格化すると、証券会社の人員不足が激しくなっていた。
やがて、火事で焼ける証券会社の本支店が続出しはじめた。
当時、兜町に残った数少ない証券マンたちは、鉄兜をかぶって、歩いて市場へ来ていた。

同年8月9日、長崎に原爆が投下されると、日本証券取引所は「当分休会」を宣言。
日本証券取引所は閉鎖され、終戦を迎えた。
1949年(昭和24年)4月1日、東京、大阪、名古屋に、証券取引所が設立された。
市場再開に先立ち、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が取引所の実地調査を行った。

大阪証券取引所を視察したGHQは、長い間の商慣習「仕切り売買」の要望を耳にした。
取引所を通さない店頭売買、「仕切り売買」の要望を耳にしたGHQは態度を急変させた。
同年4月20日、GHQのアダムズ証券担当官から、証券取引委員会へ再開要件が提出された。
再開要件は、「証券取引3原則」で、以下の3原則が要件だった。

(1)それまで自由に行われていた上場銘柄の店頭仕切り売買を禁止し、原則として、すべての取引を取引所に集中させ、公正な価格形成と流通の円滑化を図る。
(2)売買伝票に受託時間と売買成立時間を正しく記録させ、業者の不正又は過誤の生ずる余地を無くし、投資家保護を図る。
(3)従来の清算取引、すなわち差金の授受を目的する投機的取引を禁止して実物取引一本とし、取引の健全化を図る。

「証券取引3原則」は、戦前の証券取引制度の根本的改革を意味するものだった。
GHQの態度は強硬であり、開設が先決と判断した取引所関係者は受諾を決定した。
旧慣習の復活に、期待をかけていた証券業者にとっては、大きなショックであった。
同年5月16日、受諾決定により、関係者にとって念願だった売買立会が開始された。

同年8月30日。
大阪からやってきた三助は、東京駅で九代目の勝利が迎えに来るのを待っていた。
行き交う人の多さに、着物姿で風呂敷を背負った三助は圧倒されていた。
「お~い、三助」、三助が声がした方を見ると、九代目の勝利がいた。

七三分けリーゼントの勝利は、白無地シャツに白のズボンとエナメル靴の装いだった。
「よう来てくれたな、ほな、ワテと三助の住居兼仕事場に案内するわ」
2人は徒歩で、日本橋兜町へ向かった。
「着いたで」、勝利と三助の前に、建って間もない木造瓦葺きの2階建てがあった。

「こ、ここは」、三助が聞くと、勝利がいった。
「本家が持ってた土地に建てたんや、これから、ここがワテと三助の東京の拠点や」
勝利は鍵を開けると、玄関の引戸を開いて、三助を招き入れた。
玄関の床は土間になっており、壁には畳一帖ほどあるトタンの看板が立てかけてあった。

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