2021年1月9日土曜日

銘柄を明かさない理由R386 本間の荒行(前編)

自身はオリジナル小説「銘柄を明かさない理由R」を執筆している。
「銘柄を明かさない理由R」は、5人の無敗の相場師と取り巻く人々の物語である。
主な投資手法には、ファンダメンタルズ手法とテクニカル手法がある。
ちなみに、自身はファンダメンタルズ手法とテクニカル手法を併用しているw

「出羽の天狗編」には、テクニカル手法専門の相場師が登場する。
もちろん、架空の人物で、本編で使う投資手法も自身のオリジナルである。
もし、自身に多額の資金があれば、使ってみたい投資手法でもある。
では、「銘柄を明かさない理由R 出羽の天狗編」をお届けするw
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第386話 本間の荒行(前編)

江戸時代、出羽庄内出身の本間宗久(ほんまそうきゅう)という米商人がいた。
宗久は、1724年(享保9年)に生まれ、1803年(享和3年)に没した。
酒田・大坂・江戸の米相場で、宗久は莫大な富を得た。
大坂堂島の相場師、牛田権三郎と並び称された、稀代の相場師である。

酒田の富豪の三男として生まれた宗久は16歳のとき、米相場での投機を父親に進言した。
だが、父親からは「商いの正道ではない」と、相手にされなかった。
父親の死後、長男が後を継いだが、数年で隠居した。
長男は、自分の息子に後を継がせるべく、息子を播州地方の手代奉公に旅立たせた。

長男の息子が不在の間、宗久が仮の主となった。
宗久は、店の資金を元手に酒田の米相場で投機を行い、数万両もの大金を得た。
ところが、長男の息子が戻ると、経営方針の違いから、長男から追放された。
宗久が投機で得た金の多くは、防砂林等の公共事業へ寄付されてしまった。

酒田を追放された宗久は、江戸で米相場の投機を行うが失敗し破産する。
帰郷した宗久は、体勢を立て直し、当時、最大の米相場であった大坂で投機を行った。
当時、最大の米相場があった大坂は、「天下の台所」と称されていた。
大坂の豪商だった淀屋が開設した米相場での取引は、世界の先物取引の起源とされている。

米相場では、対象が米のみであることから、テクニカル分析が行われていた。
宗久は、ローソク足に基づく"酒田五法"を考案した。
大坂の米相場で、宗久は"酒田五法"により、江戸の失敗を挽回する大金を得た。
大坂で成功した宗久は、「出羽の天狗(でわのてんぐ)」と称された。

大坂で成功した後、宗久は、酒田に帰郷、再度、商いを始めた。
だが、相変わらず長男からは縁を切られたままであった。
50歳になった宗久は江戸へ移るが、またしても、相場で成功、長男とも和解した。
その後、宗久は諸藩に貸付を行うことで、莫大な富を手に入れた。

宗久は、酒田の米を売ることで、本間家と酒田の経済を側面から支えた。
当時、その活躍ぶりは、唄として流行るほどであった。
「酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米(くらまい)雨が降る」
「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」

宗久は、自らの投資哲学や投資手法を、書物に残した。
「本宗莫那剣」、「三昧伝」、「宗久翁秘録」、「酒田戦術詳解」、「本間宗久相場三昧伝」などの書物である。
宗久の没後200年以上たつ今も、宗久の「酒田罫線法」は国境を越えて活用されている。

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