2016年5月5日木曜日

銘柄を明かさない理由R66 戦線離脱と生きる意味

第66話 戦線離脱と生きる意味

ストップ安からストップ高となった株は、市場の注目を更に集めることとなった。
「どこかの機関投資家が買ったに違いない」、「大相場だ、まだまだ騰がるぞ」
外国人投資家、機関投資家、個人投資家の多くがその株に群がった。
連日、株価は最高値を更新、空前の出来高を記録していた。

ある証券会社の資産運用を担当する部署、通称アルカディア。
小柄な小動物を連想させる女性社員は、インカムの通話スイッチを入れた。
「皆さん、そろそろ戦線離脱です、今から利益確定の売りをお願いしますね」
アルカディアメンバーは、一斉に利益確定の売りに取りかかった。

照度の低い部屋、男は嗤っていなかった、いや嗤えなかった。
終わりだ、巨額の損失を出してしまった。
もはや、自分の居場所はない、早ければ今日明日にでも解雇だな。
内線が鳴った、ボス自らの呼び出しだった。

その日の夕方。
不正アクセスの首謀者を突き止めるよう依頼された男は、あるビルの玄関を見ていた。
不正アクセスに関与しているかもしれない人物は3人だった。
依頼を受けてから、男は決まった時間に3人の様子を観察することにしていた。

1人は朝の出勤時、1人はランチタイム、1人は退社時だった。
男は3人にニックネームをつけていた。
朝の出勤時の男はメガネ、ランチタイムの男はひげ、退社時の男は嗤う男だった。
退社時の様子を観察している男は、何がおかしいのか常に嗤っている男だった。

ビルから嗤う男が出てきたが、男は嗤っていなかった。
様子がおかしい、いつもと違う方向に歩き出す嗤う男を見て、男は後を追うことにした。
嗤う男は歩道橋を上がると、欄干にもたれて長い時間、走る車のライトを見ていた。
まさか会社から損害賠償を請求されるとはな、ここから飛び降りるか、嗤う男は考えていた。

視界に何か見えたので見ると、スーツ姿の男が欄干に腰掛け、足をぶらつかせていた。
「き、君、危ないじゃないか、今すぐ降りなさい」、嗤う男が慌てていった。
「自己責任でやってます、落ちたら落ちたときのことですよ」、男はいった。
「命を粗末にするんじゃない、君がいなくなれば悲しむ人もいるだろう」、嗤う男がいった。

「悲しむより怒る人はいるな、また晩酌セットのときみたいに怒られるのはイヤだな。
生きる意味を教えていただき、ありがとうございます」、男は欄干から下りて、立ち去った。
何なんだ、あの男は、馬鹿な奴には命の大切さを教えてやらんといかんな。
嗤う男は、自分が飛び降りようとしていたことを忘れて、駅へと歩き出した。