2025年4月12日土曜日

【エッセイ】相場は狂せり~日露戦争後の大相場~

下図は、TOPIX(東証株価指数)の長期チャートで、赤の破線が定価であるBPSになる。
昨年、バブル期に記録した最高値を更新、今年になってから下がり始めている。
米国の経済政策が、世界経済を縮小させることから、さらに下がる可能性が高い。
個人的に今回の相場と似ていると思う日露戦争後の相場について書いてみるw

1904(明治37)年2月、日露戦争が勃発する。
翌年1月下旬から、株式相場は高騰の一途をたどった。
同年5月、日本海海戦での圧倒的な勝利により、紡績・鉄道・工業株は暴騰を続けた。
同年9月、日本にとって屈辱的なポーツマス条約が締結されると、株価は下落したw

だが、インフレ高進下における企業収益の増加と配当の引上げなどの好材料はあった。
1906(明治39)年の初頭から、それらが現われ、ついに爆発的相場となった。
その後、一進一退となったが、低金利と金融緩慢で、同年末から相場は再び高騰。
1907(明治40)年初めになると、新高値が連続し、まさに熱狂相場となったw

野村商店(後の野村證券)の二代目だった野村信之助(後の野村徳七)も強気で臨んだ。
だが、熱狂の大反動を予見し、180度の大転換を行って、敢然として売り向かった。
同年1月8日には、「大阪野村商報」に「相場は狂せり」との意見広告まで出した。
1月18日まで株価の高騰は続いたが、休日明けの21日から暴落が始まったw

この直前、信之助は資金繰りに窮していた。
だが、資金が底をつく前に、鴻池銀行から100万円の融資を得ることに成功していた。
当時の鴻池銀行や住友銀行の資本金は約300万円であった。
このことから、信之助がいかに膨大なリスクを背負ったかが理解できるw

信之助の売り乗せ戦法は見事に的中し、莫大な利益を得た。
これにより、野村商店の基礎は、いよいよ強固なものとなった。
信之助が日露戦争後の市場暴落を予見したのは、単なる相場師の勘とは異なる。
科学的調査と経験の上に、その透徹した頭脳をひらめかしたからにほかならないw

「野村得庵伝」には次のように記されている。
「(信之助)氏は善きものは善しと言ひ、悪しきものは悪しと言ひ、善きものが不当に売り崩される時は進んでこれを買ひ、悪しきものが不当に買ひ煽られる時は進んでこれを売るといふ風で、氏は常に正面から堂々と戦った。氏が率先して調査部を設立し、これを自己目的の利益のためのみに利用せず、進んで一般に公開し、出来るだけ社会全体の用に供しようとしたことは、(中略)最も進歩した遣り方で、かかる進歩した遣り方が、明治の末期頃、すでに三十歳前後の一青年によって採用されたといふのは、たしかに驚嘆すべきことである。」
(参考:「野村グループの歴史」野村ホールディングス株式会社サイト)

昨年までの歴史的な上昇相場で、投資をしていた人は儲かったかもしれない。
だが、投資をしていない人は、物価が高騰したため、苦しい生活を送っている。
米国では物価高騰対策として、世界経済を縮小させる経済政策を行っている。
悪しきものが不当に買ひ煽られていたので、売らせようとしているのかもしれないw

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