第419話 酒田の五法(前編)
1976年(昭和51年)10月29日。
17時40分頃、酒田市中町2丁目にあった映画館「グリーンハウス」のボイラー室から出火。
観客20名はすぐに避難したが、瞬く間に隣接していた木造ビルや木造家屋に燃え広がった。
当日の酒田市は風が強く、火災は西よりの強風によって、更に範囲が拡大していた。
山形地方法務局酒田支局にある登記簿等の保管庫にも、延焼の危険が生じた。
数万冊に及ぶ各種登記簿の搬出が計画され、陸上自衛隊隊員30名が派遣された。
だが、時間的にも物理的にも、搬出は不可能と判断された。
酒田支局長は、最悪の場合、事務所棟を破壊し、保管庫を守ることを決意した。
酒田支局長は、伝手を頼ってショベルカーを手配し、陸自隊員も破壊準備にあたった。
その後、山形地方法務局長とも電話連絡が取れた。
局長からも登記簿防衛が最優先、最悪の場合、庁舎破壊を許可する旨、口頭で了解を得た。
だが、火の向きが変わり延焼は免れた。
強風により大量の飛び火や火の粉が発生し、消火活動は思うように進まなかった。
翌30日の午前3時には、火勢は新井田川まで迫っていた。
対岸からの直上放水実施などにより、延焼を食い止め、午前5時に鎮火した。
消火活動の際、延焼を食い止めるため、住宅5棟が破壊された。
消防士1名の尊い命も失われ、火の粉等で目を負傷する消防士・消防団員が続出した。
火災による唯一の死者は、当時の酒田地区消防組合消防長だった。
火災発生の知らせを自宅で受け、現場で人命救助にあたったが煙に巻かれたものとされる。
市の中心部を含め1,774棟が焼失し、被災者は約3,300名、被害総額は約405億円に上った。
残り火がくすぶる31日の早朝から、火災復興都市計画の作業が開始された。
作業は、建設省、山形県、庄内支庁建設部、酒田市などが一体となって行われた。
徹夜作業の末、11月1日夜半には、防災都市づくりの計画概要が完成した。
原案は、酒田市都市計画審議会の了承をえたあと、一週間後に市民に公表された。
11月18日、酒田市臨時市議会は、県による施行の要望書を満場一致で可決した。
可決した要望書は、以下の理由から大火復興の区画整理事業を県による施行としていた。
「事業内容が膨大で、緊急を要し、財政面で酒田市の能力を越えるものがある」
12月1日、県はその要望を受け入れ、酒田火災復興建設事務所を中央公民館に開設した。
大火復興の区画整理事業が行われている中、酒田市に匿名で巨額の寄付が行われた。
匿名で行われたため、巨額の寄付が市民に知られることはなかった。
だが、酒田市職員の間では、寄付が巨額であることから、あの一族だろうと噂された。
その一族は「酒田五法」を考案した本間宗久(そうきゅう)を輩出した本間一族だった。
(参考:酒田市ホームページ「酒田大火」)
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