2021年11月27日土曜日

銘柄を明かさない理由R411 大坂の豪商(中編)

第411話 大坂の豪商(中編)

淀屋初代の岡本三郎右衛門常安は、山城国岡本荘(京都府宇治市)の出身。
1596年(文禄5年、慶長元年)の慶長伏見大地震後、桂川、宇治川、木津川の合流点の淀津から大坂の十三人町(大阪市中央区北浜4丁目)に移り住んだ。
常安「淀屋」と称して、吉野杉や木曽檜を扱う材木商を開いた。

常安は、豊臣秀吉が明の使節を謁見するため、完成を急いだ伏見城の築城工事に参入。
散在する巨石処分を格安で請け負い、大穴を掘って巨石を埋めるという奇策で名を上げた。
さらに、秀吉が進めた巨椋池改修、宇治川の付け替え、太閤堤の築堤、伏見港の整備など大がかりな淀川の洪水対策を手がけた。

1614年(慶長19年)の大坂冬の陣、翌1615年(元和元年)の夏の陣では徳川方についた。
得意の土木技術で、家康の茶臼山本陣、秀忠の岡山本陣をつくった。
大坂城落城後は、鎧や兜、刀剣などの処分を引き受け、莫大な富を手にしたといわれる。
徳川の天下統一後、家康は常安に、苗字帯刀と岡本三郎右衛門と名乗ることを許した。

家康は常安に、山城八幡の山林300石を与え、八幡の侍格に取り立てた。
さらに、望みのものはないかと問われた常安は、以下を願い出て、いずれも許可された。
「諸国から大坂に入る干魚の品質に応じて市価を定める独占権と干魚の運上銀(関税類似のもの)を欲しい。米穀の相場を自分一手で立てたい」

常安は土佐堀川の河原で、淀屋の蔵に集まる米を店頭に出し、私設の米市場を開いた。
そこに仲買人が集まり、米相場が発展することになった。
幕府に中之島開拓を出願すると、常安請地として整備し、1619年(元和5年)に完成した。
近世大坂のインフラ整備を進め、大坂が「天下の台所」として発展する基盤を築いた。

淀屋二代目の淀屋言当は、常安と同様商才に富み、覇気も備えていた。
海部堀川を開削、「永代浜」を設けて海産物市場、京橋南詰の所有地に青物市場を設けた。
米市のため、門前の土佐堀川に橋を架け、「淀屋がかけた橋」(淀屋橋)が出来た。
財政難に陥った大名に、蔵米を担保とした「大名貸し」をするまでになった。

淀屋四代目の淀屋重當について、井原西鶴の「日本永代蔵」に以下の記述がある。
「大書院、小書院は総体金張り付き、金襖に極彩色の四季の花鳥を描かせ・・・外来品のビードロ(ガラス)の障子を立て、天井もまたビードロ張りにして、そこに水をたたえて金魚を放ち、寝ながらそれを眺められる」

「日本永代蔵」は、日本で初めて本格的に経済小説を扱った作品と位置づけられている。
同作品では、米市の隆盛についても、以下の記述がある。
「北浜の米市は、日本第一の津なればこそ、一刻の間に、五万貫目のたてり商もある事なり」。
(参考:公益財団法人 関西・大阪21世紀協会「なにわ大坂をつくった100人」)

0 件のコメント:

コメントを投稿