自身はオリジナル小説「銘柄を明かさない理由R」を執筆している。
「銘柄を明かさない理由R」は、5人の無敗の相場師と取り巻く人々の物語である。
現在、新シリーズの「出羽の天狗(でわのてんぐ)編」を執筆中である。
「出羽の天狗編」では、西の淀屋と東の本間の戦いが物語の軸となる。
「第30章 伝説の仕手戦」を書き終えたあと、続きは年明けからにしようと考えていた
先日、ある登場人物から、いい加減に続きを書かんかい、といわれた。
登場人物には逆らえないので、続きを書くことにする。
では、「銘柄を明かさない理由R 出羽の天狗編」をお届けするw
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第410話 大坂の豪商(前編)
「淀屋の碑」は地下鉄御堂筋線淀屋橋駅の西側、土佐堀通の川沿いに建っている。
大阪北浜船場ライオンズクラブが、1987年(昭和62年)2月に建立した。
日本学士院会員で元大阪大学教授の宮本又次氏(故人)が碑文を書いている。
「淀屋の碑」から中之島を挟んで北西約300mには、「堂島米市場跡記念碑」がある。
「堂島米市場跡記念碑」は日本証券業協会大阪地区協会が1990年(平成2年)3月に建立。
碑文には「先物取引発祥の地」と書かれており、背後に稲穂を手にした子たちの像がある。
稲穂を手にした子たちの像は、1955年(昭和30年)に堂島米市場跡建碑会が設置した。
台座には、川岸で開かれた米市場の代名詞の「濱」の字が図案化して刻まれている。
淀屋は、江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商である。
総資産は約20億両で、現在の貨幣価値に換算すると、約200兆円といわれている。
世界に先駆けて、全国の米相場の基準となる米市を設立したことでも知られている。
淀屋は、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展することに大きく寄与した。
淀屋が、店頭で始めた米市場は年を追って活発になった。
北は青森から南は鹿児島まで全国から米が大坂に集まり、各藩は中之島に蔵屋敷を構えた。
変動する米価をリスク回避するため、帳合米取引と呼ばれる先物取引が発達した。
また、仲買人は1,000人を超えるようになった。
米価をコントロールしたい幕府は、米取引に介入を図った。
1697年(元禄10年)、幕府は米市場を淀屋の店先から堂島へと移した。
1730年(享保15年)、幕府は堂島米会所として帳合米取引を公許した。
当時の堂島米会所では、身振り手振りによる手信号で売買が行われていた。
手信号の売買は、シカゴの農産物先物取引所や商品先物取引所と同じだったという。
来日中のドイツ人医師のシーボルトが堂島の売買を見て、シカゴに伝えたという説がある。
堂島米会所は、世界で最初の組織化された商品先物市場として発展してきた。
1869年(明治2年)、幕府が崩壊すると、明治政府によって堂島米会所は閉鎖された。
1990年にノーベル経済学賞を受賞した、シカゴ大学のマートン・ミラー博士。
1998年に放送されたNHKスペシャル「マネー革命-金融工学の旗手たち」。
ミラー博士は、堂島米会所の米取引について、以下のように述べている。
「先物取引は日本で発明された。それは現代的な取引制度を持った最初の先物市場でした」
「シカゴ商品取引所よりも120年近くも前です。先駆的で革命的な事業でした」
福澤諭吉らは翻訳のため、様々な経済用語を編み出したが、相場用語は日本語がほとんど揃っていたといわれる。淀屋が江戸初期に蒔いた金融革命の種は400年の時を経て、シカゴで発展、21世紀の資本主義に「デリバティブ」と名を変えて世界を席巻している。
(参考:公益財団法人 関西・大阪21世紀協会「なにわ大坂をつくった100人」)
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