2021年8月7日土曜日

【エッセイ】思い出にふけっているようでは先がない

株式投資は、将来の予測に賭ける知的利殖法だという見方がある。しかもそれは、誰の力を借りるわけではなく、あくまでも自分一人の判断によるという大前提がある。
人にとって、孤独な判断や決断ほど苦手なものはない。たとえ最初から聞く気はなくとも、他人に意見を求めようとする。心の負担を減らし、自分の考えを正当化しようとするためだ。逆にいえば、自分の判断に自信がなく、したがって希望的観測にすがりついている姿が浮き彫りにされてくる。
(中略)
この希望的観測を生むいわば元凶が「高値おぼえ 安値おぼえ」。ひとたび経験した値段を忘れかね、いつまでも昔の夢に入りびたっていると、相場の転換期についていけなくなる。ところが株式の世界ほど、昔話を語りたがる人の多いところはない。「あのときA株は何円で――」というたぐいだ。 それが単なるお話から、現実の世界へ置き換えられる。「こんな安値があったのだから、今の株価では買えない」という結論をもたらし、大きな転換期をつかみそこなう元となる。
「株価はもとの古巣に帰る」というように、将来の予測に、過去の足どりは確かに一つの手がかりとはなろうが、それがすべてではない。世の中でも「思い出話を好むのは老人。若者が思い出にふけっているようでは先がない」といわれている。進取の気性は株式投資にも生きているようだ。
(日本証券業協会ホームページより)

自身は、たまに株の掲示板を読むことがある。
掲示板でよくあるのが、「あのとき株価は〇円で・・・」という思い出話。
また、思い出を元に「今の株価では買えない、買うなら〇円で・・・」という意見も多い。
自身が知る限り、これらの意見が当たったことはないw

考えてみれば当たり前で、相場は常に前に進んでいる。
いつまでも過去の栄光(?)を追いかけていれば、取り残されるだけである。
思い出話を好むのは老人で、若者が思い出にふけっているようでは先がない。
過去は過去と割り切り、常に前だけを見なくては相場の転換期についていけないw

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