2025年10月11日土曜日

【小説】たわけになりて米を売るべし

2025年9月の週末の夕方。
大阪市中央区北浜の裏通りにある雑居ビルの地下から、年配の男が上がってきた。
黒シャツとジーンズ姿の男は、頭に黒のバンダナを巻き、口髭をたくわえていた。
男は、入口にある看板「BAR Three monkeys」の電源を入れると、地下へ降りた。

男は「Three monkeys」と書かれた木製のドアを開け、店の中へ入った。
店は細長い作りになっており、カウンター席が8席しかない店には誰もいなかった。
カウンターの中へ入った男は丸椅子に座り、リモコンで壁のテレビをつけた。
客が来るまでのヒマつぶしに、ニュース番組を観始めた。

気づくと、テレビを観始めてから、30分が過ぎていた。
いきなり、ドアが開くと、このビルのオーナーである島崎が入ってきた。
「いらっしゃいませ、島崎さん」、丸椅子から立ちあがった男がいう。
急いできたのか、息を切らしている島崎が手前のカウンター席に座っていう。

「し、知り合いから聞いたんやけど、あんた有名な相場師らしいな」
「株はしてますが、趣味程度です」、壁のテレビを消しながら男がいう。
「丑田春樹いうたら"三猿の丑田"いうて、株の世界では知らんもんはおらへんちゅう話や。
まさか、こんな身近におったとはな、こら運命ちゅうやつやな」、島崎がいう。

「ご注文は」、イヤな予感がしながら、丑田が聞く。
「飲みもんはええ、あんたに頼みたいことがあるんや。
実はな、株を買うとるんやけど、いつ売ったらええか、教えて欲しいんや。
証券会社はまだ売るなっていうんやけど、これから下がるかもしれんしな」、島崎がいう。

「私は金融業の免許がないので、お受けできないのですが」、丑田がいう。
「そこを何とか頼むわ、謝礼はするし、何なら賃料下げてもかまへん」、島崎がいう。
「お金の問題ではなく、法に触れるかもしれない行為はできないのです」、丑田がいう。
「責任はわしが持つし、一筆書いてもかまへん、頼むわ」、島崎がいう。

この場所は気に入っており、新たな場所を探すのも面倒だと思った丑田がいう。
「どうしてもと仰るなら、無償であることと責任は島崎さんにあると一筆書いてください。
あと、教えることはできないので、取引は私にさせてください。
取引中は一人にさせていただくことも条件です」

「本当にそれでええんか、タダ働きやんか」、島崎がいう。
「この条件を守っていただけないなら、お受けすることはできません」、丑田がいう。
「わかった、ほな一筆書くから、紙とペン貸してんか」、島崎がいう。
丑田はカウンター下からノートとペンを取り出すと、島崎に渡した。

翌週水曜日の朝、大阪市中央区北浜の裏通りにある雑居ビルの最上階。
複数の不動産を持つ島崎は、このビルの最上階の一室を管理事務所にしていた。
エレベーターを降りた丑田は島崎の事務所へ向かった。
ドアの脇にあるインターホンを押すと、待っていた島崎が中へ招き入れてくれた。

事務所の中には、いくつかの書棚と向い合せに置かれた事務机と椅子しかなかった。
「こっちの部屋に用意したさかい」、島崎が丑田を社長室と書かれた部屋へ連れていく。
広いとはいえない社長室には、書棚と事務机よりは高価そうな机と椅子があった。
机の上には、起動させたノートパソコンがあった。

「ログインしとるけど、ログインと取引のパスワードは付箋で貼っといた。
今日は定休日やから、誰も来うへんはずや、何かあったら、携帯に電話してくれたらええ。
終わったらカギ閉めといて。カギは取りに行くまで持っといてくれたらええ。
取引は任すんで、頼むわな」、島崎はいうと、丑田にカギを渡して部屋を出て行った。

一人になった丑田は、ジーンズのポケットから手帳とペンを取り出した。
椅子に座ると、マウスを動かして、取引口座を確認した。
保有銘柄は10銘柄で8銘柄が含み益、評価額と現金の合計は1,000万円ほどだった。
丑田は画面を見ながら、銘柄コードと数量、平均取得単価を書き取っていった。

書き取りが終わると、時刻は8時30分になろうとしていた。
30分で10銘柄の売り注文、3分で1銘柄、ぎりぎりだな。
丑田は前日終値での売り注文の入力を始めた。
買い気配の銘柄が多く、指値を高くするか迷ったりしたが、前日終値での入力を続けた。

最後の売り注文の入力が終わったのは、取引開始時間の直前だった。
取引開始時間になると、次々と売り注文が約定した。
寄付きで約定した銘柄は、前日終値より高く約定していた。
「万人が万人ながら強気なら たわけになりて米を売るべし」、丑田はつぶやいた。

その日の相場は寄り天で始まった。
底打ち反転したのを確認した丑田は、含み損の銘柄の買い注文を出し、約定させた。
約定すると、すかさず、含み損銘柄の売り注文を出した。
また、約定していない売り注文の指値を変更し始めた。

翌木曜日の朝、大阪市中央区北浜の裏通りにある雑居ビルの最上階。
早朝出社した島崎は、社長室でノートパソコンを起動、ログインして取引口座を確認した。
10銘柄あった保有銘柄は、全て売られて、なくなっていた。
驚いたのは、税金が引かれているのに、1,000万円超の現金が残っていることだった。

聞いた話はホンマやったんやな、"三猿の丑田"こと丑田春樹。
江戸時代の米相場師で「三猿金泉録」を書いた牛田権三郎の子孫。
どえらい人が店子やったんやな、出ていかれんよう、気つけないかんな。
島崎はログアウトすると、ノートパソコンをシャットダウンした。

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